人は幸せになるために人と関わる

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おはようございます。

 

先日、ある男性とお話をする機会がありました。

 

すでに結婚されており、お子さんも今年中学に入学。

順風満帆に見えるのですが、その方実は子供が生まれて直後より夫婦仲が悪化し

事実上の「仮面夫婦」を十数年も続けているそうなんです。

 

とにかくもう「合わない」らしく、修復は出来ないときっぱり仰っていました。

 

それを聞いて素朴に思うのは、「それでもなぜ破綻した関係を維持し続けているのか」ということです。

 

 

1年や2年の話ではありません。

 

10年以上、そんな合わない相手と向き合い続けるのはなかなか骨の折れることではないかと、客観的に思わずにいられませんでした。

 

「なぜそんなにも長く、関係を維持し続けているのですか?」

 

この問いに対する答えはとてもシンプルなもので、ただ「子供といたいから」ということ。

 

何度か奥様と離婚について話し合ったこともあるそうなのですが、奥様曰く「子供とは自由に会っていい」と言われているそうです。

 

「父親はあなたしかいない。子供が父親に会いたいと思ったらなるべくその意思は尊重したい」

 

 

ならば問題はないのでは?と思ったのですが、その男性にとっては離婚する前と後では同じ「会う」でも全く意味合いが異なるようなのです。

 

「離婚していないが子供が親戚の家に行っており、次会うのは1週間後」

「離婚しているが定期的に会っていて、次会うのは1週間後」

 

同じ1週間後でも全然違う。寂しさが違う、とのことでした。

 

なるほどと思いつつ、私は少しその男性に危機感を感じました。

 

 

子供はやがて成長し巣立っていくものです。

それが10年、20年先であろうとも、必ず訪れるものです。

 

そうなった時、この男性の人生もその分の時間が消耗されているわけです。

 

当然ですね。

時間は平等に、同じように流れていくのですから。

 

仮にその子供が20歳で独り暮らしを始めたとしましょう。

現在その男性は45歳なので、+8年で53歳になっています。

 

53歳でお子さんは家からいなくなります。

 

その時になってようやく離婚を考えだしたとして、残りの人生をその男性はどう過ごされるつもりなのでしょう?

 

男性は「新たに出会いを見つける」と言っていましたが、その時どれほどの可能性が減ってしまっているか、男性自身自覚しているようには見えませんでした。

 

 

もちろん人それぞれ人生の使い方は自由です。

 

子供の行く末を見守って、安心できてから自分の人生を考え始めたいという人もいるでしょう。

 

親であればもしかすると誰でもそう思うのかもしれませんし、私はそれを否定しようとは思いません。

 

それは尊い選択だとも思います。

 

 

ですが、誰かに人生を預ければその分何かが犠牲になるというのが世の常です。

 

特に今回の場合、奥様もその男性も子供を愛しているから「子供のために」憎み合っていても一緒にいる決断をされています。

 

子供のために、2人がもしかしたら巡り会えたかもしれない「愛し合える誰かとの縁」を犠牲にしてしまっているのかもしれません。

 

それが幸せなのか不幸せなのかは考え方次第になりますが、そういうリスクも払って今という時間を過ごしているという自覚は、多少なりとも持った方がいいのではないかと私は思います。

 

 

少なくとも、ある程度大きくなった子供からすれば、自分のために我慢して一緒にいるだなんて「ありがた迷惑」な話になっている可能性すらあります。

 

ほとんど口を利かない、口を開けばケンカばかり。

そんな父と母の姿を見て、

子供は自分の「幸せな結婚」を想像出来なくなります。

 

自分たちの幸せを犠牲にするばかりか、子供の可能性に溢れた未来すら犠牲にする羽目になるかもしれません。

 

それも込みで考えた時、本当に「子供のため」と思うなら、せめて二人の関係は修復させようとお互い努力はすべきなのではないでしょうか。

 

中途半端な想いは誰も幸せにはしません。

 

 

 

『執着こそが苦しみを生んでいる』という言葉があります。

 

長く苦しめ合う関係も、お互いに「執着心」があるから終わらせられなくなります。

 

それは言葉だけなら理解は出来ますが、真意を心の底から理解するには当人たちの強い意識が必要となります。

 

気付こうとしなければ、苦しかろうが何だろうが、いつまでもその執着を「正しいもの」として抱え続けることになります。

 

それはとても辛いものなのではないでしょうか。

 

 

人は、苦しめ合うために関っているのではありません。

理解し合いお互い幸せになるために関わっているのです。

 

それがどんな相手であろうとも。

 

その目的を忘れてはいけないと、感じずにはいられませんでした。